山本総本店|栃木市の手作り和菓子

栃木県栃木市倭町7-13 お問合せ電話番号 0282-22-4700

山本の菓子ものがたり|山本総本店:栃木市の手作り和菓子

山本の菓子ものがたり その壱

うづま川の川運によって江戸時代より栄えた商人の街栃木。
豪商が蔵を連ね華麗な人形山車(だし)を繰って栄華を誇ったこの街で、明治25年山本屋菓子店は創業しました。 行商が主な小さな店でした。

初代吾市は、木型で米の粉を打つ打ち菓子を得意気に並べていたようです。 ところが大正時代になると新し物好きの吾市は、東京から流れてきた洋菓子職人を雇い入れ、 いなかの町ではいち早く洋生菓子を作って売ったそうです。 かすていらにバタークリームを塗ったものや、窯で焼いたシュークリームなど。
あん物の和菓子が主流だった当時は、あまり売れなかったようですが、本物の材料しか手に入らないため、 それはそれはおいしかったそうです。

そんな吾市が旅行で行った上州磯辺で、鑛泉の水で焼いた煎餅を見つけ、たいそう気に入りました。 体に良いと言われていたその水は、当時から使うのに権利を買わなければなりませんでした。 しかし、おいしくて体にもよいこの煎餅は、栃木でも喜ばれるに違いないと思い、栃木の菓子屋何軒かで権利を買って、 山本でも「礦泉煎餅」を焼き始めました。新し物好きが高じて始まった山本の「礦泉煎餅」は、 大正時代から変わらぬ味を今もお届けしています。

商売につきものなのがしっかり者のおかみさん
吾市に輪をかけた気丈夫の妻ハルは、吾市亡き後、栃木の文豪山本有三先生を当時お住まいだった湯河原にお訪ねし、 「路傍の石」のお名前を、同じ苗字の当店の代表銘菓に使わせていただくお許しを得てきました。
近所でも評判の女傑と呼ばれたハルさんはそうとうなやり手だったようです。いやはや・・・。

戦時中の中断を経た後再開した店は地域に根ざした菓子店でありたいという気持ちから、愛する郷土にちなんだ菓子を創って参りました。 太平山神社の社宝「火防(ひぶせ)の獅子」を型どった”火防最中”や、栃木の方言を菓子にした”だんべ”など。

「材料の質は決しておとすな」という厳しい2代目の教えを反映して、地元のお客様の信頼を得て参りました。
その菓子作りに対する姿勢は職人によって今に受け継がれ、手作りにこだわった和菓子を伝え続けております。明治から今に伝わる 思いを皆さまにも楽しんでいただければ幸いです。


山本の菓子ものがたり その弐

どの商売にも戦争は暗い影を落としました。
和菓子屋にとっても、つらい時代でした。当時、北関東でも有数の菓子道場と言われた、佐野市の古い和菓子屋で修行を終え、 店の中心であった2代目は、21歳で戦争に行き、そのまま捕虜にとられ、何年も帰れませんでした。 菓子を作る材料もほとんど手に入らず、店は休業に追い込まれました。

2代目が栄養失調で命からがら帰されたのは、終戦から3年経ってのことでした。
その後、どうにか材料が出回るようになってからは、走り回って砂糖を集めたそうです。
空っぽのトランクを持って東京のやみ市まで出かけ、そのトランクいっぱいの砂糖を持ち帰りました。
もちろん電車で。 砂糖があるうちは、手に入る乏しい材料でやっとまんじゅうを作り、砂糖が手に入らないと、 さつま芋などから作った水あめだけでどら焼きの皮を焼いたそうです。
当時の苦労は想像にあまりありますが、それでも留守を守った家族との家業再開は楽しかったに違いありません。

当店には、大人の握りこぶしよりも大きなハンコがあります。
これもまた、山本の戦後を見つめて来ました。住所と店名と電話番号だけを彫ったもので、直径が11センチ程あります。まだ包装紙の印刷もままならなかった頃に、無地の紙にこのハンコを押して、お菓子を包んだそうです。
物のなかった時代、包装紙がなくても、充分な品物ではなくても、ぶかっこうなまんじゅうの包みはそれでもお客様に喜ばれ、大事に腕にかかえられて運んでいただいたのだろうと思います。
すっきりとモダンなイメージのこのハンコは、戦後60年、今も静かに当店の様子を見守っています。

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